花森安治さんとの出会い
1955(昭和30)年に初めて、取材をかねて大橋さんと編集長である花森さんが当社へ来社されました。そのときに花森さんが色紙に描いた「灯と椅子」の絵は、飛騨産業へ寄贈され、その後、カタログなどに使用することになりました。
暮しの手帖社創業者の大橋鎭子さんと、初代編集長となる花森安治さんが1948年に創刊した生活総合誌。衣・食・住をテーマとし、戦後すぐの物のない時代には、手作り家具や直線裁ちの服などを提案。その後は商品テストや企業との日用品の共同開発を手掛けるなど、毎日の暮しを少しでも豊かで美しくするための企画を展開しました。現在も広告を取らず、生活者の側に立った編集方針で刊行を続けています。
2016年のNHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」では、大橋鎭子さんが、高畑充希さん演じるヒロインのモチーフになりました。三姉妹が父の死を乗り越えて成長し、戦後に生活雑誌を創刊、編集者として活躍するドラマとして描かれました。
左から「1世紀1号」「2世紀1号」「4世紀4号」「5世紀11号」
1955(昭和30)年に初めて、取材をかねて大橋さんと編集長である花森さんが当社へ来社されました。そのときに花森さんが色紙に描いた「灯と椅子」の絵は、飛騨産業へ寄贈され、その後、カタログなどに使用することになりました。
『暮しの手帖』誌上では、1963(昭和38)年から「日本紀行」の連載が始まります。ひとつの町のいとなみをクローズアップし、カラーやモノクロの写真と、花森さんの文章を効果的に織り交ぜた誌面でした。編集長である花森さん自らが取材し、劇的に変化していた当時の日本の状況を洞察したこの記事は、『暮しの手帖』の企画の中でも力作のように思えます。
その「日本紀行」の第2回目が飛騨高山でした。取材時に、飛騨の家具職人が作る曲木椅子やウインザーチェアに注目され、実際に編集部やご自宅で使用。「ものを批判する人はいいものを使って知っていないといけない」という考えを実践し、その座り心地と丈夫さを実証されました。
「日本紀行 飛騨高山」は2020年刊行の『花森安治選集 第2巻』にも収録されています。
1963(昭和38)年発行の『暮しの手帖』1世紀72号「日本紀行 飛騨高山」。 飛騨産業のダイニングチェアがずらりと並ぶ。
当時、東京都港区東麻布にあった「暮しの手帖研究室」での食事風景。ダイニングチェアには旧マッキンレーが使用されています。
1965(昭和40)年3月25日から東京・日本橋三越で開催された「飛騨高山展」⦅飛騨民藝協会主催⦆。花森さんが中心となって、会場が構成されました。会場の看板に筆で題字を書く花森さん。
1969(昭和44)年に発表して以来、人気を博していたリビングセット「穂高」は『暮しの手帖』編集部でも使われ、1974(昭和49)年刊行の『暮しの手帖』2世紀33号では「だんだんふやしていく椅子」というページで紹介されました。掲載時、生産が追いつかないほどの注文が殺到、その後も幾度かご紹介していただきました。発売から50年以上たった現在も日本人の暮しに寄り添い、時を継ぐ商品として愛され続けています。
飛騨高山が『暮しの手帖』の連載「日本紀行」で紹介されてから58年の月日を経て、このたび、2021年5月25日発売の5世紀12号で飛騨高山が特集されることとなりました。今回高山を旅するのは画家の牧野伊三夫さん。牧野さんは当社が発行する小冊子「飛騨」の編集委員でもあります。幾度となく飛騨を訪れ、そこにある暮しを体感してきた牧野さんが表現する「飛騨高山」。どのような記事になっているのかがとても楽しみです。
最後に、花森さんが感じた「飛騨高山」が表現された一文があるので紹介します。
飛騨の高山は不思議な町です、
すさまじい勢いで古いものが
こわされてゆく今の世の中に、
この町だけは 何百年の月日の
なかでみがきぬいた暮しを
そのまま持ちつづけています
そこには、日本が、世界に誇る
高い感覚と見事なかたちと
美しい心が息づいているのです
写真協力:暮しの手帖社
【特集】牧野伊三夫のスケッチ旅
すがおの飛騨高山
文・絵 牧野伊三夫 写真 尾嶝 太
画家の牧野伊三夫さんが、十年来通ってきた飛騨の心落ち着く場所を、スケッチと文章でご紹介します。飛騨国分寺の「大イチョウ」や、高山市内の名店、円空仏のある「飛騨千光寺」などを訪れます。
「穂高」が生まれたのは、人類が初めて月に降り立つ1969年。優雅なデザインと堅牢なつくりで愛され続け、2018年に50周年を迎えたロングセラーです。クッションの交換が簡単で、組み合わせを変えたり、増やしたりできるユニークなソファは家族の歩みに寄り添い続けます。