祭と飛騨びと

伝統が息づく町、飛騨高山。日本列島の中央、岐阜県の北部に位置しています。飛騨高山と称される岐阜県高山市は周囲を北アルプスなどの山々に囲まれ、面積のおよそ90%を森林が占めています。残りの10%は市の中心を流れる宮川周辺の盆地で、古来より飛騨独自の文化が育まれてきました。

守り継がれる祭文化

高山市では、毎年「日本三大曳山(ひきやま)祭」や「日本三大美祭」にも挙げられる「高山祭」が開催されます。「高山祭」とは4月に行われる日枝神社の例祭である「山王祭」(春の高山祭)と、10月に行われる櫻山八幡宮の例祭である「八幡祭」(秋の高山祭)の総称です。今から400年以上前、高山城主の金森氏が飛騨地方を治めていた時代に、豊作を祈願する山王祭と、豊作に感謝する八幡祭として誕生しました。現在では国指定重要無形民俗文化財やユネスコ無形文化遺産の指定を受けています。「祭屋台」と呼ばれる木工技術の粋が集まった神輿が目玉で、春の山王祭では12台、秋の八幡祭では11台の屋台が町を練り歩きます。

今では目玉となっている屋台が高山祭に登場したのは1718年頃といわれています。金森家寄進の太鼓を乗せた八幡祭の「神楽台(かぐらたい)」から始まり、次々と屋台が建造されました。屋台を造り上げ、存続させてきた者の多くは飛騨高山に住む人々です。地元の有力者だけでなく、皆で資金を出し合って屋台組と呼ばれるグループを結成。それぞれが匠の技術と美意識を大いに発揮しました。屋台の部品には欅の一枚板や西陣織の幕などが使用され、小さな部品でも現在の価格で数百万円かかるほど、豪華で精巧な造りになっています。300年もの間に火災で焼失してしまった屋台もありますが、各組が屋台蔵と呼ばれる大きな土蔵に保管し、改修・改築を繰り返しながら大切に受け継いできました。

屋台はそれぞれの組で構造や意匠が異なります。屋台を代表する「麒麟台(きりんたい)」は、春秋の高山祭を通して一番装飾が多く、地元出身の名工、谷口与鹿(たにぐち よろく)が江戸時代末期に手がけた彫刻が特徴です。1本の欅材から彫られた童子や動物の生き生きとした様を見た「恵比寿台(えびすたい)」組も谷口与鹿を説得し、彫刻を依頼しました。麒麟台の装飾が唐風であるのに対し、恵比寿台は異国風でまとまっています。屋台は各組が負けじと出来栄えを競って造られました。

 

屋台のからくりも見どころの一つです。春の屋台のうち、3台にからくり人形が載せられています。その中の1台、「龍神台(りゅうじんたい)」は謡曲「竹生島(たけぶじま)」に登場する龍神が屋台名の由来です。唐子が運んだ壺の中から龍神が現れ、紙吹雪をあげながら舞い踊ります。からくりは御旅所前の広場で順番にそれぞれの屋台の上で演技を披露します。大人から子供まで複数の人形師が糸を巧みに操ってからくりを動かします。

 

飛騨産業の社員である修理工房の阿多野さんが所属する「大國台(だいこくたい)」は、屋台上部の米俵の上に鎮座している大国像が特徴です。かつては大国像の腹中から七福神が舞い出てくるからくりが行われていました。屋台の曳行(えいこう)順はくじで決めますが、大國台の曳行順が前方だと米価は上がり、後方だと下がるという言い伝えもあります。

この地域の人にとって高山祭は格別です。阿多野さんをはじめ、飛騨産業の社員の中にも毎年地域での役割を担い、祭に参加している人は少なくありません。練習のために学校や会社を休むこともごく自然なことです。阿多野さんは祭のことを、静かな町に一体感が生まれる貴重な行事だと考えています。準備や後片付けに至るまでの作業は大変ですが、集まりは賑やかで楽しく、何よりも自分たちの大國台が誇らしく思えるそうです。

 

しかし、少子高齢化や人口流出などにより祭の担い手は年々減少しています。大國台組の場合、屋台の上で演奏するお囃子は子供の役割ですが、多い時で30人いた子供も現在は半分程度まで減少しています。組によってはアルバイトを雇わざるを得ないところもあります。

一方、昔は女人禁制だった屋台も今は女性が曳き廻しに参加したり、地域外から来た若者も好意的に受け入れたり、高山祭は時代と共に変化しています。参加条件はただ一つ、代々受け継がれてきた屋台を守る強い意志があること。阿多野さんは「屋台は興味があれば参加できるし、離れることになっても気兼ねなく観に来れば良い。いつでも歓迎するよ。」と明るく話していました。また、阿多野さんは毎年飛騨職人学舎の生徒を屋台の中へ案内し、屋台の構造や技術の講義をしています。次なる祭文化の継承者を育てていくために新しい取り組みは始まっています。

 

祭と屋台を守るための人々の営みはこれからも続きます。


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