第一回 曲木の椅子は荷馬車に乗って

 飛騨産業は、令和二(二〇二〇)年、創業から一〇〇年を迎えました。
 大正九(一九二〇)年、山に眠っているブナの木を活用して、曲木の家具をつくろうと、町の有力者有志が出資して始まった中央木工株式会社がその前身です。
 一〇〇年前はちょうど、世界的に猛威をふるっていたスペイン風邪が、ようやく収束を迎えようとしていたころ。どこか現代と通じるものがあります。
 激動の時代を生き抜いて、これからのまた新しい一〇〇年に向かって行くために。創業当時に制作していた製品を、いま一度、現代に復刻してみようじゃないか、というプロジェクトが昨年からスタートしました。
 復刻したのは「第七號椅子」。第七號とは、当時の製品番号です。曲木の技術を存分にいかした、いまで言う社内デザインの椅子です。
 いざ製作を始めてみたら、これがなかなか山あり谷あり。一筋縄ではいきませんでした。完成までの道のりは、一〇〇年前の先人の知恵をたどる道のりでもありました。
 そんな「第七號椅子」復刻の物語、しばしおつきあいください。

 平成三一(二〇一九)年、春。

 デザイン室の中川輝彦は、資料の山にうずもれていました。一〇〇周年記念事業で、創業当時の椅子を復刻してみようと決めたものの、いったいどの椅子を復刻するのがふさわしいか。そこから考えなければなりません。
「復刻して製品として発表する以上、自社のオリジナルとして胸を張れるものにしたい。当時の製品のなかで、オリジナルといえるものはどれなのか、まずはそれを特定するところから始めようと思う」
 先日の会議でも、そう話したのです。
 創業当時は、まだいまのような著作権や、デザインという言葉も概念もない時代。製品の多くは、国内外の既存のものを手本につくっていました。同業他社でも同様です。ですから、メーカーは違っても似たような形の曲木の椅子が出回っていました。そこから、これぞオリジナルデザインといえるものを、特定しなければなりません。
 中川は、創業当時のカタログのコピーを片手に、当時の同業他社の製品資料、海外でつくられていた曲木椅子の資料などと首っ引きで、丹念に見比べていきます。


 曲木の椅子が日本で本格的に製造されるようになったのは、明治四〇年代のこと。農務省が広葉樹の利用促進のために始めた啓蒙活動として、曲木椅子の試作を行った流れを汲んで、東京、大阪のほか、秋田曲木製作所(のちの秋田木工)など、いくつかの曲木の家具メーカーが創業しました。 
 明治維新以降、政府が推進してきた近代国家づくりは、初期の経済基盤となった製糸業などから、第二ステージに移ろうとしていました。そのひとつに、ブナ材の活用もありました。
 山の多い日本にとって、森林資源は貴重な財産。当時は、現在のように、植林されたスギやヒノキばかりの山ではなく、その土地の植生のもとに自生した樹々が山を覆っていました。飛騨地方は特に、昔から良質な木材がとれる場所として、江戸時代は天領(幕府の直轄地)だったほど。明治維新以降も、スギ、ヒノキはもとより、マツ、ナラ、クリ、などが神岡鉱山の燃料や、全国に敷かれ始めた鉄道の枕木用にと、どんどん伐り出されていました。
 しかしブナだけは、水分が多く乾燥しづらく、燃料には不向きで、かつ、ねじれや狂いが生じやすいため加工が難しく、全国の山に原生林のまま眠っていました。飛騨地方でも、昔から、下駄の歯くらいにしかならないと言われてきました。
 しかし、だからといって山に眠らせておくのはもったいないと、活用法として着目されたのが「曲木」という新しい技術です。
 ブナの木を曲げて椅子を量産するという技術は、ミヒャエル・トーネットが立ち上げたトーネット社によって、一九世紀のヨーロッパで始まりました。それまで手工芸でつくられていた椅子が、動力によって量産が可能になり、一気にヨーロッパ各国に広まりました。
 日本で曲木椅子の製造が活発になった大きなきっかけは、第一次世界大戦(一九一四〜一八)です。トーネット社は、チェコやオーストリアに工場があったため、戦時中に製品の輸出ができなくなり、にわかに日本製の曲木椅子の需要が高まります。大正六(一九一七)年には八万三〇〇〇脚もの日本製曲木椅子が、英国の植民地に輸出されていきます。
 しかし大戦の終結によって、本家トーネット社製品が復帰してからは、あっという間に日本の曲木椅子の需要は減ってしまいます。世の中全体が不景気になり、早くも廃業するメーカーもあったようです。
 ですから、飛騨産業の前身である中央木工の創業が大正九(一九二〇)年というのは、やや遅きに失した感はあるのですが、飛騨に限っていえば、第一次世界大戦の好景気の名残で山林が値上がりし、木材そのものが高値で売れていました。いちがいに不景気とはいえなかったのかもしれません。
 養蚕や製糸業で栄えてきた飛騨高山のなかでも、それに代わる新しい時代の産業が待ち望まれていました。

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「これだ、きっとこれに違いない」
 このところ、ずっと資料を当たり続けていた中川は、ようやく一脚の椅子に目星をつけます。
「第七號椅子」
 大正一一(一九二二)年版のカタログに掲載されているその椅子は、ほかの製品とはあきらかに違った考え方でつくられていました。トーネット社を代表する「No.14」の椅子のように、背から脚までをアーチ状にひとつながりの曲木で形づくるのではなく、背、肘、脚、それぞれすべてを独立した曲木のパーツでつくり、組み上げています。
「わたしもやはり、七號椅子はオリジナルデザインである可能性が高いと思います」
 一緒に調査を進めていた、デザイン室の小平美緒も同じ意見です。
「これでいこう」
 復刻プロジェクトの主役が決まりました。

 しかし、製品を図面に起こそうにも、現物が残っていないばかりか、当時の資料で残っているのはカタログのコピーだけ。いまのように印刷がいいわけでもない、小さな写真が並んだチラシのようなカタログの、そのまたコピーとあってはディテールも詳細な全体像もわかりません。手探りで検証しながら、形をつくっていくしかありません。
 材料も、できるだけ当時に近づけようと、国産材のブナを使うことにしました。
 地元のブナの木を活用するために始まった曲木家具ですが、一九六〇年代の高度経済成長期に家具の需要が急激に増加、七〇年代には国内の材料そのものが枯渇していきます。八〇年代以降は外材の輸入自由化などの影響もあり、家具材の多くは輸入に頼るようになりました。飛騨産業でも、現在は使用する木材の多くは輸入材です。しかもブナの木を使うことは、いまはほとんどありません。国産材のブナを使うのも、新たな挑戦ともいえる試みです。

「復刻とはいうけれど、新しい家具を開発するような気持ちですよ」
 小平が言います。以前から、飛騨地方の曲木家具産業について論文も書いている中川が、サンプルのブナの木っ端を手にうなずいています。
「当時は身近にあって、使われていなかったブナを使うのだから安くつくることができた。いまブナ材は決して安い材料ではないし、まして国産材は山から伐り出すのも大変だから希少。労働力や技術に対する考え方も違うしね。現代の価値観で、いちから開発するも同然だよ」
「当時とは、開発の意図が全然違いますよね」
「曲木は、産業革命で実現した技術といえるわけで。量産することで廉価にすることが当時の目的だけど、今回の復刻プロジェクトは、むしろ曲木の一品製作みたいなことだから。高級品になるよね。それだけの説得力があるものにしないと」
「目的は単なる復刻ではなくて、いかにいまの私たちにとって魅力的なものにできるかですね。これ欲しい! 次のボーナスつぎ込んででも買っちゃおっかな、と思ってもらえるような、かっこいい椅子にしたいなあ」
「たとえば、当時の製品は店頭で組み立てていたから、どうしてもビスが表に出てしまっただろうけど、いまは完成品で出荷するからビスは製造の段階で、木目埋木で隠すことができる。そういう細かいことでも、だいぶすっきりモダンな印象になるはずだよね」
 少ない資料をもとに検証しながら図面を起こし、試作の段階では、すべてのパーツを無垢の木を削り出してつくってもらい、全体のバランスやディテールを微調整していくことにしました。

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大正一〇年、夏。

 工場の片隅で、森前廉爾は考えていました。
「もっと細かい部品を、組み立てるようにすればいいんやないかな?」
 窓を全開にしていても、蒸気の熱でただでさえ熱い曲木工場のなかは、じっとしていても汗が吹き出てきます。
 創業から一年近く経って、ようやく少しずつ製作が軌道にのるようになってきました。最初は部材がうまく曲がらずに、失敗の連続。ようやく形が整うようになったと思ったら、倉庫に保管している間に形が歪んでしまったり。原因もわからず、試行錯誤の連続でした。
 当時、高山にはまだ鉄道が開通していませんでした。椅子を出荷するといっても、荷馬車に乗せて名古屋まで四日間、揺られていくのです。そのため、椅子は完成品ではなく部品で出荷して、到着した販売店の店先で組み立てて売る、という形をとっていました。
 初出荷のときは、役員、職工、事務員一同、万歳三唱で見送ったのに、名古屋に着いたときには、塗装が真っ白くはげ落ちて荷崩れを起こしていた、という痛手を受けたのでした。
 そこから奮起しての製品開発。創業からしばらくは、すでに巷に出回っている同業他社製品を手本に、一、二種類の椅子をつくるのが精一杯でしたが、技術を安定させるのと並行して、商品数も増やしていこうとしていました。
 森前は、曲木の技術を身につけていたことで創業に関わった、唯一の職工です。大阪の曲木家具工場で働いた実績を買われたのです。しかし、いざ現場が始まってみると、大阪とは気候も設備も、何もかも条件が違うなかで曲木をやるのは、並大抵のことではありませんでした。
 大きな違いのひとつは、山国の高山からは、製品が荷馬車で峠を越えて何日も揺られていくということです。その間に、部品が変形したり割れたりする確率が高い。ならばできるだけ、そうなりにくい形の部品でつくる椅子がいいのではないか。森前は、ひとつひとつの部品が、短い曲木でできているほうが、部品の数は増えても変形の可能性は下げられると考えました。
 いま製造している椅子は、背から脚までぐるりと大きく一本の部材を曲げてつくります。うまくできれば形はいいけれど、失敗も多く、変形もしやすい。乾燥技術が現代ほど高くなかった当時、勘と経験だけが頼りでした。
 工場の端材を使って、森前は試作をしてみました。背、肘、脚がそれぞれ単独の部材で、すべてがゆるやかな曲木でできている、ゆったり腰掛けることができる形。数日かけて完成した新作を前に、
「なかなかいいんでないか」
 ひとりごちました。
 翌朝、専務のシラマサこと白川政之助に見せてみました。
「ふうん、いままでとはまた、だいぶ違う形やな」
「ひとつひとつの部品が短いから、端材も使えて無駄も少ない。組み立ては、ちと手間だけど」
「やってみるか。やってみてから考えるか」
 椅子の背をつかんで、ぐっと持ち上げたシラマサは、
「お、見た目より意外に軽いな。それで、製品番号は?」
「第七號椅子や」
 初めて誕生した、中央木工オリジナルデザインの椅子です。

(つづく)

vol 1 03
第二回 座枠の「の」の字はどう書くの?