民芸思想の継承
「民芸」とは大正時代に作られた造語です。表層の美に惑わされて工芸の実用性が衰えかけた頃「日本にはこんな素晴らしい職人技があるではないか」と識者たちが暮らしの美学の再発見に動きました。民芸とはつまり民衆の中から湧きだす工芸です。民芸復活にたずさわった柳宗悦や河井寛次郎、濱田庄司らは、そこに宿る力強さを「用の美」と呼び、そこに「健全な美」があると説きました。使い慣れるほどに奥深さと使いこなす喜びがあり量産品では味わえない楽しい実用性に愛着がわく。そんな実用性と健全な美しさを備えた民芸の魅力が今、再び脚光を浴びています。
柳宗悦
河井寛次郎
濱田庄司
北海道民芸家具ストーリー
2009年11月、クラレインテリアの廃業に伴い、同社が永年製造販売してきた「北海道民芸家具」のブランドと、北海道の三笠工業団地にある製造工場を、人材ごと飛騨産業が引き継ぐことになりました。クラレインテリアは1964年に、当時、岡山の倉敷レイヨンの社長だった大原総一郎が創業した、北海道民芸木工が前身である。総一郎は、父・大原孫三郎の意思を受け継ぎ、民芸運動を支援する実業家であり、美術収集家としても活躍し、日本で最初となる近代西洋美術を展示する大原美術館を設立。その後、柳宗悦や濱田庄司と交流を深めながら父子で民芸運動の支援者となり、日本民藝館の設立に協力します。
大原総一郎
日本民藝館
やがて総一郎は父の遺志を受け継ぐべく、北の大地で殖産振興と伝統技術を根付かせようと民芸家具の製作を決意。 十代の若者たちを集め、まず木工の修業を長野県の松本民芸家具で、みっちり積むところから基礎固めを始めました。
まもなく道内の潤沢な樺の樹を主材に、多くの民芸家具を作りだすようになります。思えば明治末に武者小路実篤や志賀直哉の白樺派という文芸思潮が生まれ、それが大正デモクラシーという文化現象となり、さらに民芸復活の道を開いたのですが、二つの樺の樹は暮らしを潤す幸運の樹なのかもしれません。
文芸誌白樺創刊号
開所式にて挨拶する大原総一郎
始めての完成品を見守る一期生たち
高度成長期に入ると収益を急ぐ画一的で効率優先の量産品がもてはやされ、伝統の職人技が軽んじられがちになりました。そんな時代にも樹齢150年の樺の無垢板を活かした丹精な家具づくりは、柳宗悦らの遺志をついで用の美と質の高さで各地にファンを増やします。
「北海道民芸家具」初期のカタログ
芹沢圭介
1971年には人間国宝・芹沢圭介による北海道民芸家具のロゴも完成。1974年には道央の三笠に新工場を建設。 2万4千坪の敷地でさらに発展をとげて企業名も、クラレインテリアと改めます。
クラレインテリア(株)北川社長より
ブランドを引き継ぐ岡田
工場入り口にはキツツキマークと
北海道民芸家具のロゴが並ぶ
飛騨産業が提案する新しい民芸
中部山岳地帯の飛騨高山で当社が創業した大正時代、近隣の山々にはブナの天然森が広がっていました。この森林資源をどうすれば町が潤うか。そんな問いが、ヨーロッパ発祥の曲木椅子づくりの背中を押しました。そして創業90周年を迎えた秋、遠く北の大地に周遅れで誕生した伝統ブランドの北海道民芸家具を継承。この英断は当社とも重なる実直な企業理念に共感したからに他なりません。「用の美」と呼ぶ生活美学のあくなき探求は、飛騨高山の物づくりと炭鉱と開拓の町・三笠を結ぶに十分な未来像をはらんでいたからです。
「用の美」を現代語訳すれば、どんな場面がふさわしいのでしょう。それは手作りの良さを残しつつ、工業化を図り、いつまでも変わらぬ使い良さと使う楽しみを地域から時代に提供すること。 飛騨産業は民芸の心を大切にしながら、これからも生活美学を追求していきます。